ユングのタイプ論p6

  
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ユングのタイプ論



ユングのタイプ論によるディスカッション 6ページ目

みよし様
36歳 女性 既婚



鈴木めいや

何かを企画するような仕事の場合は、自我の強い人のほうが有利であるように思います。
また、例えば「過去に大きな失敗をしてから苦手意識を持つようになった」というように、個人的な理由がある場合もあるのでしょが、そうではない場合は、基本的には苦手な部分はやはり劣等機能に関わる場合が多いと思われます。
なので、心理学的に、「主機能と劣等機能が比較的明ら」になりますと、苦手な部分と具体的に向き合うことが出来るようになるはずです。このことは、ただわけも分からずに苦手としている場合と比較しますと、明らかに克服するには有利ではないかと思います。

2) 人が幸せな生活を送ろうとするには、意識の態度としては、主機能と劣等機能が明らかな「分化」した状態と、「未分化」な状態と、いずれが望ましいと考えられるでしょうか。

「幸せ」とか、「幸福」というテーマは、おそらく文学や哲学者などが、気が遠くなるような長い時間をかけて、人類がずっと考えてきた壮大なテーマであり、そのような大きな問題を簡単に片付けることは、わたしには出来ません。
事実、何が幸せであるかについては、太古の昔から多くの人達が長い時間をかけて考えてきているにもかかわらず、未だに誰もが納得するような答えは出せていないのではないかと思います。
そもそも、そのような最終的な答えが分からないからこそ、わたし達は悩み、生きることの大きな意味となっているのではないかという気が致します。
もしかしたら、そのような最終的な答えが出てしまったときというのは、数十年の人生を歩む必要がなくなってしまうときなのかも知れませんね。
ですが、わたしは基本的に、“自分のやりたい”仕事や生活を送ることが出来ている人というのは、単純に、幸せな人と言っていいのではないかと思っています。このことは、心理学的には、「生まれ持った主機能を生かすことが出来ている人」と言うことができます。
生まれ持った主機能をフルに機能できる仕事や生活を送っている人というのは、基本的に、人生を楽しんでいる人です。

そもそも、「機能」という言葉のサンスクリット語の語源は、「楽しむ」ということなのです。

「私が主機能と劣等機能がはっきりしないのは、後天的といいますか、本来あまり得意でないはずの臨床医という仕事に携わっていたからかもしれないという気がしています。(それで、今は臨床から遠ざかって研究している、ということになるのかもしれませんが・・・ところで「直感タイプ」は研究は向いているのでしょうか??)」

わたしは医療に関してはまったくの素人ですが、おそらく医師の仕事というのは、一つの症状や体の状態に対して、様々な可能性を疑い、多くの事柄を思い浮かべなければならないのではないかと思います。
そのような意識の働きは、全体性を把握することにたけている直感タイプが得意とすることです。

なので、わたしの個人的な意見としては、医師や研究者にとっての直感機能は、大切な意識の働きであるように思います。

「私が医師という職業に自分を適応させた代償に、自分の中で何かが磨耗し失われたかのような印象をもっているのですが、この印象につき心理学的にコメントしていただけましたらうれしいです。」

おそらくそのことは、「意識と無意識の関係性」ということに、関係があるように思われます。
例えば、ある映画では、子ども時代には見えていた妖精が、大人になると見えなくなってしまいます。大人には見えない不思議な世界が、子どもの目には当たり前のように見えるのです。
このことは、子どもは大人よりも無垢であり、精神生活という意味において、無意識の近くに暮らしているからこそ、物質ではない不思議な世界が見えるのだと言うことができます。
ですがわたし達は、大人になるに連れて、意識は無意識からどんどん離れていき、意識と無意識との関係性は悪くなっていくのが普通です。

大人になるということは、もしかしたら、「くだらない」とされる無意識の内容から縁を断ち切ることであるのかも知れません。
これは、作家や芸術家などの表現者が、いつまでたっても子どもっぽいということにも関係があるように感じられます。つまり彼らは、いい歳して、いつまでたっても無意識との関係性が優れているために、目には見えない世界を表現することができるのであり、そのため周囲の人に、どこか子どもっぽいという印象を与えやすいようです。ちなみに、「ブラックジャック」や「火の鳥」の作者である手塚治先生は、イタズラ好な一面を持っていて、いつまでたっても編集部の人などを驚かせては喜んでいて、子どものような無邪気な面を持っていたようです。

おそらく、みよし様の場合、
「社会人となり医師となるべく職業訓練される過程は、そのような苦手を少なくとも通常レベルにまで引き上げるのに役立ったかもしれません。」

といったかたちで、明瞭な意識性を獲得した結果、子どものような感性の豊かさであったり、子どものような意識と無意識との関係性は薄れてしまった、ということなのかも知れませんね。

ですがこのことは、社会適応能力のある大人になるためには、前提的な心のプロセスであるように思います。
心が大人になるためには、無意識との関係性はかえってジャマに作用するものです。

みよし様

丁寧なお返事ありがとうございます。
私の言葉が不足していたためとは存じますが、一部質問の意図が伝わりにくかったようですね。それも含めまして、以下に改めて質問の意図その他私の考えましたことを述べさせていただきます。

典型的に主機能/劣等機能が明瞭な人であっても、キャンプや田舎での不便な生活をすることによって、劣等機能をある程度働かせなければならず、結果として各機能の隔たりがなくなり主機能/劣等機能の区別が今までよりは不明瞭になる、ということでよろしいでしょうか。
これは、主機能 /劣等機能が明瞭であった人ほど、多大な苦痛・労力を経て成し遂げられるプロセスであり、人格の成長とも呼べるような事柄ではないかと私は理解しています。

「野生に近い生活」ということと、「日本古来の文化」ということは区別して考えるべき」とご指摘いただいておりますが、いずれも主機能/劣等機能の区別が不明瞭となりやすい点では共通です。

私は、鈴木様(そしておそらくはユング・河合心理学)は、主機能/劣等機能の区別が不明瞭な場合につきまして、少なくとも2通りのパターンがあるように想定されているのではないかと考えたのですがいかがでしょうか。

パターン1:自我を抑制する文化により、主機能/劣等機能の区別が未分化なままである場合。自我は弱く、主機能/劣等機能の区別も不明瞭。
パターン2:「キャンプや田舎での不便な生活」によって劣等機能がある程度鍛えられ、結果として主機能/劣等機能の区別が不明瞭になった場合。この場合は自我は弱いとは限らない。
このような場合の2通りのパターンにつきまして、予め明確にしておいていただいた方が、理解しやすかったかもしれないと存じます。
さらにパターン3として、自我が強く、主機能/劣等機能の区別が強い、欧米人に典型的な場合を加えることができると思います。
前回の私の質問の一つ目

「未分化」な状態は、何の努力もなしに達成されうるものなのでしょうか。それとも、主機能と劣等機能が比較的明らかな状態を経て、苦手な部分を克服する形で成し遂げられるものなのでしょうか。」

ですが、その意図は上記パターン1とパターン2の区別につきまして詳しくお伺いしたかったということでした。
また、前回の私の質問の2つ目

「人が幸せな生活を送ろうとするには、意識の態度としては、主機能と劣等機能が明らかな「分化」した状態と、「未分化」な状態と、いずれが望ましいと考えられるでしょうか。」

は、パターン1、2,3、いずれが本人およびその周囲の人々が心穏やかに暮らせるか、そういうことを伺ってみたかったのでした。別に、幸福そのものについて伺ってみたかったわけではございません。
それでも、パターン1〜3に分類してみた時点で、私の中で自ずと自分なりの答えが出たように思います。
おそらく、パターン2が多くの平凡な人にとって最良と私は思います。
パターン1は楽ですが、このような人は前例のないことに遭遇したときに主体性を持って判断することができないので、危機的状況にすばやい対処ができないのではと思います。例えば、今回頂いたメールのなかの

例えば、ある会社の組織で何かの役割を任された場合、例えば事務員なら、必要最低限の感覚機能だけ文化・発達していればそれで済み、他の思考や感情機能は、「出る杭は打たれる」というようなことになりかねずかえって不利に働いてしまうかも知れません。

にありますような事務員の例ですが、単にそのような人は機械的な仕事しか任せられないのに過ぎないのであり、職場でも「融通が利かない/能力が低い」とみなされているのではないでしょうか。
事務員に限らず、どのような仕事であっても、想定外のケースに対処できるかどうかという「応用問題」があり、それを解くためには他の機能も必要だと思います。有能な事務員なら、上司が不在であるときに想定外の問題が起きた場合にも機転を利かして対処するでしょうし、その行為が誰かの顔を潰すかもと思えばさりげなく気付かれないようにやるでしょうから「出る杭は打たれる」ということもないと思います。どのような職業でも、そのような「出来る人」はいるものです。(確かに、そのような「出来る人」であれば、一生ヒラの事務員で終わることもないのかもしれませんが。)
私の推測に過ぎませんが、日本人にこのような人が比較的多かったのは、日本が長い間平和で安定な社会だったからだと思います。現代日本のような価値観の混乱しつつある社会では、常に他人に流されるような生き方はかえって危険な気がします。
パターン3ですが、得意なことだけやっていて生活できる場合には、幸せかもしれません。
頂いたメールの中にも、

「ですが、わたしは基本的に、“自分のやりたい”仕事や生活を送ることが出来ている人というのは、単純に、幸せな人と言っていいのではないかと思っています。このことは、心理学的には、「生まれ持った主機能を生かすことが出来ている人」と言うことができます。
生まれ持った主機能をフルに機能できる仕事や生活を送っている人というのは、基本的に、人生を楽しんでいる人です。
そもそも、「機能」という言葉のサンスクリット語の語源は、「楽しむ」ということなのです。」

と仰っておられますが〜

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