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ユングのタイプ論



ユングのタイプ論によるディスカッション 7ページ目

みよし様
36歳 女性 既婚

と仰っておられますが、この言葉は本当にその通りと私は思います。
ただし、生まれ持った主機能を輝かせ続けて(これは、劣等機能が濃い影として劣等なままであることをも意味するのでしょうが)一生を送れる人は、稀だと思います。そのような人は、溢れんばかりの才能とか、情熱とか、何か天才的な突き抜けたものがないと、そうはならないのではないでしょうか。
普通は、「自分の本当にやりたい仕事」についても、他人に負けたとか、うまくいかないとか、病気になってブランクが生じたとか、何か必ずピンチが訪れるものです。
圧倒的な才能や情熱を持っている人は、それに物を言わせてそれだけで乗り越えられるのかもしれませんが、凡人にとってはこの世は一つの機能だけを働かせてそれで事足りるほど単純には出来ていないように私には思われます。
「本当に私のやりたいことはこの仕事なのだろうか?」という疑いを一生抱くことのない人がいるとすれば、随分幸福な人だろうなと思います。
でも私は、そのような人がいたとしても、本音のところはさほど羨ましくはないのです。普通なら、不調なときにそのような疑いの問いを禁じえないものではないでしょうか。少なくとも、私はそうです。
おそらく、私は一生、何かうまくいかないことがある度に「この仕事でいいのか?私が楽しいことは何か?」と問い、その問いを心の深みを探るきっかけにすることだろうと思います。
そのようなプロセスは、人生の楽しみを相対化し、「禍福はあざなえる縄の如し」であることを実感させはするのですが、自らの認識の厚みを増すためと思えば、それはそれで興のようなものを感じたりもします。
少し脱線かもしれませんが・・・

「キャンプや田舎での不便な生活」が何故「劣等機能と対峙させる」ものとなるのか、ですが、私は「危機的状況にあること」「そこから逃げられないこと(危機と向き合わずにはいられないこと)」がミソなのでは思うのですが、いかがでしょうか。
生きるか死ぬかの場面では、苦手だの何だのとは言ってられませんから、必要な機能をがんばって働かせるしかない、ということなのかなと思います。

自然の傍であることの意味は、そもそも自然そのものが人間にとって過酷なものであるからではないかと私は思います。

もし、キャンプでも天候に恵まれたり食糧確保が容易であったりなど、あまり困難に遭わないようであれば、単に楽しいだけで終わるのではと思います。

例えば、手前味噌で申し訳ありませんが、大病院の勤務医なども常に「危機的状況」にさらされていると思います。といいますか、重病人が押し寄せる病院という「場」が、一つの修羅場なのかもしれません。
医師になった時点では、やはり思考タイプの人が多いように思うのですが、看護師その他の医療スタッフとのチームワークを維持し、患者やその家族とも良好な人間関係をつくるには、感情機能をある程度働かせないとやっていけません。
しかも、次々にやってくる重病人は病気のために情緒不安定になっていることが多く、信頼関係を築くには細心の注意が必要です。
鈴木様が指摘された通り、医師には確かに直感機能も大事なのですが、手術手技はもちろんのこと患者の所見を取ったり画像・検査データを読んだりするためには感覚機能も相当発達していなければならず、わずかな見落としがあとで命取りになるかもしれないという緊張に常にさらされています。

確かに都会であれば、たいていの仕事に代わりが見つかるものであり、大した責任感がなければどこかの国の首相のように中途で役目から降りてしまうことも可能ではあるのですが。
人の大勢いる都市にあって「危機的状況」にさらされる人というのは、他に代わりがいない(と思い込んでいる)ため自分がここで逃げるわけにはいかないとか考えがちな責任感の強い性格ではあるのでしょう。

それでも、田舎都会にかかわらず、劣等機能との対峙を強いる「危機的状況」は人間の生活のどこにでもあるようなものであって、そこから逃げてばかりもいられないのではないでしょうか。
例えば家庭は、しばしば逃げ場のない袋小路になることがあります。思春期の子供の非行や家庭内暴力、年老いて認知症となった親の介護、といった「危機的状況」は、誰しも経験しうることでありますし、ちょっとした家庭内問題であれば誰しも日常的に当事者であろうと思います。
誠実な人ほど逃げることができず、それを成長の契機となることが多いとは思うのですが、危機を乗り越えられず、自殺、殺人、無理心中という最悪の事態に陥ることも稀ではなく、殺人事件のうち家族によるものが最も多いというのもうなづけます。

「劣等機能を知るには、行動してみること」と以前のメールでお教えいただきましたが、現在私が劣等機能がよくわからない気がするのは、現在私が順調でありピンチに陥っていないからであり、自分の劣等機能が知りたければ、負荷を上げて自らを厳しい状況に追い込めばいいのであって、安全な位置にいてあれこれ考えても意味がないということが理解できてきました。これだけでも私にとっては収穫である気がいたします。

ここで気付いたのですが、前のメールで私が

「都市生活、あるいは西洋文化は、意識の態度(自我)を強くし、主機能と劣等機能が明らかになりやすいが、野生に近い生活、あるいは日本古来の文化は、意識の態度が未分化なものとなりやすい、ということですね」

と申しましたのに対し、

「野生に近い生活」ということと、「日本古来の文化」ということは区別して考えるべきです。」

と指摘していただきましたが、同様に「都市生活」と「西洋文化」も分けて考えるべきかもしれませんね。
以前いただいたメールに

余談ですが、ちなみにこのことは、東京などでの便利な生活が、個人個人をなにか一つの機能に極端に偏らせる傾向を持っていることも意味します。
例えばわたしは、アキバ系は内向的感覚に極端に偏ってしまっているタイプが多いと考えていますが、都心から離れた地方には、アキバ系の人のような、極端に一機能に偏っているタイプの人を見つけることはまず出来ないでしょう。実際に、そのような人は地方にはいないのです。
言葉に訛りのある田舎の人は、情報は少し遅れていても、4機能という意味ではバランスの良い人が多いように思います。
ですが、東京の人は、極端に偏った思考タイプの人や、極端に偏った直感タイプや感覚タイプの人はあまり珍しくありません。
このことはおそらく、東京は便利であるが故に、自分のお好みの機能だけ働かせていても十分生活が可能であるということを意味しているように思われます。

という部分があります。これは、現代日本では都会田舎にかかわらず「オタクの若者」は沢山いるということを除けば、確かにその通りなのですが、西洋人一般がそうであるとはいえないと思いました。
西洋人の自我が強いのは、幼い頃から自立を促され、また言語によるコミュニケーションをよく訓練されるからですよね。しかし少なくともアキバ系の人というのは(私の偏見かもしれませんが)どちらかというと、自我はあっても幼いものであることが多いような、言語によるコミュニケーションも不得手であることが多いような印象があります。

最後に、

おそらく、みよし様の場合、「社会人となり医師となるべく職業訓練される過程は、そのような苦手を少なくとも通常レベルにまで引き上げるのに役立ったかもしれません。」といったかたちで、明瞭な意識性を獲得した結果、子どものような感性の豊かさであったり、子どものような意識と無意識との関係性は薄れてしまった、ということなのかも知れませんね。ですがこのことは、社会適応能力のある大人になるためには、前提的な心のプロセスであるように思います。心が大人になるためには、無意識との関係性はかえってジャマに作用するものです。

というご指摘は、納得いたしました。
「子供心」と「大人としての社会適応能力」のバランスは、難しいもののようですね。

鈴木めいや

今回、頂いた一連のメールのやり取りはとても興味深く、このように意見を交わすことが出来て楽しく思いました。ありがとうございました。

パターン1:自我を抑制する文化により、主機能/劣等機能の区別が未分化なままである場合。自我は弱く、主機能/劣等機能の区別も不明瞭。
パターン2:「キャンプや田舎での不便な生活」によって劣等機能がある程度鍛えられ、結果として主機能/劣等機能の区別が不明瞭になった場合。この場合は自我は弱いとは限らない。
このような場合の2通りのパターンにつきまして、予め明確にしておいていただいた方が、理解しやすかったかもしれないと存じます。
さらにパターン3として、自我が強く、主機能/劣等機能の区別が強い、欧米人に典型的な場合を加えることができると思います。

という部分ですが、基本的には、わたしもこれには同感です。
ですが、強いて言えば、ここでは「抑制」という言葉を使っていますが、この言い方では、日本人はまるで意図的に、わざと自我を押え付けてきたかのようなニュアンスになってしまい、あまり適切ではないように思います。
日本文化にそのような意図があったとは考えにくく、それはあくまでも、日本人が文化を築いてきた結果として、自我が弱い人のほうが社会適応などに有利となっていた、ということだろうと思われます。
なので、(抑制という言葉を使っても、それはそれほど大きくは間違ってはいないのですが)この文章をもう少し良いものにするには、
「パターン1:自我が明確に立ち上がりにくい文化により、主機能/劣等機能の区別が未分化なままである場合。自我は弱く、主機能/劣等機能の区別も不明瞭。」
としたほうが妥当であるように思います。それ以外は、わたしも同感です。
また〜

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