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ユングのタイプ論



ユングのタイプ論によるディスカッション 4ページ目

みよし様
36歳 女性 既婚



鈴木めいや

今回、頂いたメールに上げている「実生活上どうしても治らない悪癖」ですが、ここに書かれている文面をみる限りでは、やはりわたしにも、直感機能が主体となっているタイプの方の傾向を持っているように感じました。
特に、以下の3つ、

#本などを読んでいたり考えに耽っていたりして、時々電車を乗り過ごしたり乗りそびれたりする。

例えば、ユング博士は、
「悟りを開こうしているインド人の例などをあげて、内的直感がフルに機能している最中というのは、外向的感覚が無意識的になっているときなので、そのときは顔にハエが止まっても本人は全く気付くことが出来ない」
というようなことを言っています。
それは極端な例ですが、「考えに耽っていたりして」というのは、内的直感のことである可能性もあり、わたし達はだれでもそのようなときは、外側の出来事に気が付くことができなくなっているときですので、「時々電車を乗り過ごしたり乗りそびれたりする」ということがあっても不思議ではないですね。

#運転歴10年近いのに、車の運転が下手でよく傷をつくる。しかもいつぶつけたか本人は覚えていない。

車の傷どころか、自分の体の擦り傷やアザなどにも同じようなことが言えます。
わたしの経験では、典型的な直感タイプの子どもは、外で遊んできてそのままお風呂に入ったときに、初めて自分のヒザに擦り傷があることに気がついたりします。いつ、どこで血を流すほどの傷を負ったのか、本人に聞いても全く思い出せなかったりするものです。
それはおそらく、感覚タイプの子どもにはあまり見られない傾向ではないかと思います。

自分の身体でさえそうなのですから、もし、典型的な内向的直感タイプであると仮定すると、車の傷に気がつくのはさらに難しいのではないかと思います。

#方向音痴で迷子になりやすい。一人で行動するときは十分下調べをして迷わないようにするが、集団行動するとつい気を許してしまい、よくはぐれる。

これも、外的感覚が劣等な直感タイプがもつ傾向です。

これが、典型的に内向的直感のみに極端に偏っているタイプの方向感覚となると、まったく酷いものがあります。典型的なこのタイプの方は、占い師や宗教家、芸術家などにもよく見られますが、彼が地図を持って先頭を歩くと面倒なことになるものです。
少なくもと、ここにあげられている傾向を見させて頂いたかぎりでは、感覚面が主機能となっているタイプではないということだけはハッキリ言えそうですね。
また、外向的感覚タイプは、「快楽取り入れ方」とも言われ、このタイプの人は、基本的に、感覚的に快適な状態を保つことにこ慣れていて、楽天的な方が多いようです。
わたしの経験では、感覚タイプと直感タイプが仲良くなるのは、夫婦にだけ言えることではないように思います。
わたしの学生時代を思い出してみても、正反対のタイプという間柄は、仲良くなりやすいように思います

つまり、その2人のうち直感に優れているタイプが、物事を全体的に見て、様々な予測や方向付けをします。そしてその隣にいる感覚タイプの人が、相棒のその漠然とした方向付けを具体的なものにするのです。
仲が悪くなりやすいのは、構え(つまり、内向タイプと外向タイプ)が違う場合です。
経験上では、この2人はあまり仲良くなることはないように思います。外で元気に遊ぶ子どもと、部屋で読書やゲームばかりしている子どもでは打ち解ける機会は少ないものですし、お互い、悪い印象を持ちやすいものです。

また、余談ですが、わたしの個人的な経験では、男性の場合、典型的な直感タイプ同士というのも非常に仲が悪くなりやすいものです。
おさらく彼らは、自分の意識の一番近い領域に布置されているシャドウコンプレックスを投げ合う仲なのです。お互いが、自分自身のイヤな側面を見ているようでイライラするものなのでしょう。この2人が仲良くなるには、同じ目標の中で散々ケンカをして、否定的な気持ちを100パーセントぶつけ合って、互いの力を認め合わない限り、そう簡単には仲良くはなれないもののようです。

1) 私の劣等機能は「感覚」ということになると思うのですが、「ユングのタイプ論」に「劣等機能が最も無意識に近いところにある」ということが書いてありましたが「感覚」がいちばん無意識に近いということがもうひとつよくわかりません。

繰り返しになりますが、直感が意識領域において機能しているときというのは、感覚(視覚や聴覚などの身体的な知覚といってもいいでしょう)は無意識的となっているときです。

(おそらくみよし様の場合は、極端に直感機能のみに偏っているタイプではないと思われますが)直感機能のみに偏っているタイプの人の眼球運動を観察すると、基本的に、いつもキョロキョロと落ち着きがなく、見るべき対象から視点がブレやすく、その対象をチラッとしか見ない傾向にあることが分かります。
彼はさながら、その対象をチラッと見ただけで、その全体的な事柄の全てが分かったつもりになりやすいのです。

例えば、わたしの知っている典型的な直感タイプの作家さんは、受講生が持ってきた作品の一行目さえ読んでしまえば、その作品の全てが分かると言い切った人がいます。
なので彼女は、受講生の作品を最後まで読むときというのは、一行目で分かったことがどれだけ正しいのかを、確認するためだけに読むのだと言います。
それはなにも、受講生の作品に限ったことではありません。典型的なこのタイプの人は、基本的に、「見る」とか、「聞く」といった感覚的な作業は、ほんの一瞬だけ、チラッとだけすれば事足りるのだという漠然とした感覚を持っているようです。
なのでこのタイプの人は、基本的に、普段はあまり、洗礼された感覚機能が意識に上ることはありません。意識領域において、感覚機能自体が分化されてはいないのです。
このタイプの人にとって、感覚的な心の働きは、常に無意識に一番近い状態にあります。右足と左足の靴下が黒と灰色であることにも気が付かずに、堂々と外を歩けるのは、いつもこのタイプの人なのです。

2) また、「劣等機能に関することで、人は感情的になりやすい」と書いてありましたが、このことも私自身に関してはもうひとつよくわかりません。

劣等機能は、基本的にその人の意識の状態を掻き乱すような、抜き差しならない情動性を持っているもので、もし劣等機能が活発になり、意識の上にのぼってきそうものなら、鉄の両腕で強引に押え付けるか、あるいはその犠牲になってしまうかのどちらかしかありません。

典型的に一機能に偏っている精神の持ち主は、劣等機能も極端にはっきりしていることが多いのです。その場合、劣等機能が活性化して意識に入り込んでくるときというのは、“その人らしさ”のようなものが破壊されてしまうときであるとさえ言い切れます。
それは、典型的に直感タイプのみに偏っている人に見られる劣等な感覚機能にも同じようなことが言えます。
例えば、典型的な直感タイプの子どもに、裁縫であるとか、パズルとかの具体的な手作業を無理強いしたとしたら、どうなるでしょう。五分後にはイライラしてストレスとなり、「あーもう面倒臭い!」と言って作業中のもの物を壁に投げつけてしまいかねません。

普段は無意識的である劣等機能を、無理に働かせようとすると、どうしても内的情動の犠牲となりやすい状態となってしまいます。
劣等機能は、常に無意識の闇という暗くて訳の分からない、コントロールの利かない厄介なものですので、本人の気分を掻き乱しやすいのです。

3) 私はおそらく他の「思考」「感情」機能も少しは成長させているようではありますが、これらを「同様に、バランスよく」育てることは可能なのでしょうか。

可能です。
現実に多くの人は、考えるべき状況に置かれれば客観的な心の状態を引き出し、物事を順序だてて考えることができますし、久しぶりに旧友にあったり子どもの世話をするといったときには、笑顔で「久しぶりー、可愛いねー」などと言って自然に主観的な感情を引き出すこともできます。多くの人は、その両方のどちらかを、好きなときに引き出すことが出来ます。

そしてそれは、基本的に、主機能である直感か感覚を軸にして、同時には相容れない正反対のそのどちらかを、そのときの状況にあわせて引き出します。
実際に、仕事の打ち合わせや会議中のときは、あんなに淡々とした雰囲気であったのに、会議が終わって誰かが冗談を言ったとたんに、急に会議室の雰囲気が一気に変わり、みんな笑顔になったりすることがあります。

つまり、その部屋にいる人々が全体的に、客観的な思考の状態から、その正反対である感情の状態に切り替わる瞬間というときが存在するのです。
これが、もし、会議中に感情を引き出す人がいると、「何をヘラヘラと笑ってるんだ!」と怒られるかも知れません。
なので、わたし達の誰もが、「ニコニコしていて感情モードになっていると、客観的な思考モードは消えてしまうぞ!」ということは、実は一般的にもよく知られているかのように感じることがあります。
それはおそらく、広く一般では、理論的に整理されていないというだけで、そのことは心のどこかでは誰もが知っていることなのではないかと思います。
そして、その2つは明らかに、お互いを打ち消しあうような心の働きではありますが、直観か感覚を主軸に、その両方を、毎日、同じくらいの時間帯で働かせて、バランスよく分化・発達させている人というのはそれほど珍しくないように思います。
そのような人は、仕事のときの気持ちと、家庭やプライベートのときの気持ちをハッキリと区別できるタイプの人と言えるかも知れません。

4) 私の主機能であるらしい「直感」ですが、これが自分の中で働いているという実感があまりありません。それは、私にとって当たり前すぎるからなのでしょうか。
それとも、他の機能を育てようとして、「直感」機能自体はやや損なわれているのでしょうか。あまり、自分自身の「直感」によって恩恵をこうむった記憶がないのですが・・・・

主機能によって恩恵をこうむる、という考え方は、あまりしないような気がいたします。主機能が働いている状態にある、ということは、あくまでも、“自分らしい状態にある”という、ただそれだけのことではないでしょうか?
例えば、友達や人から見られたときに、「普段、そんなことをしてたの?でもそれってあなたらしいよね」などと言われるときは、大抵、主機能によって何かをしているときです。
基本的に、わたし達は、主機能をはたらかせて得意分野に取り組んでいるときというのは、物事を上手に運ばせることが出来ます。ですがそれは、その人にとっては、いつもの状態である主機能にすぎませんので、物事がうまく運んで当然なのです。
なので、わたしも、「それは、私にとって当たり前すぎるからでしょうか」という考えには賛成です。

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